大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

福岡高等裁判所那覇支部 昭和56年(ネ)41号 判決 1983年11月22日

第一審原告

花城カミ

第一審原告

外間慶子

第一審原告

花城喜美子

第一審原告・第一審反訴被告

花城可昭

第一審原告

伊禮ツル子

右五名訴訟代理人

安繁

第一審被告・第一審反訴原告

花城可助

右訴訟代理人

新垣勉

主文

一  第一審原告花城カミ、同外間慶子、同花城喜美子、同伊禮ツル子及び第一審原告・第一審反訴被告花城可昭の本件各控訴並びに当審における別紙物件目録2ないし11記載の各土地に関する追加的・選択的各請求をいずれも棄却する。

二  第一審被告・第一審反訴原告の本件控訴を棄却する。

三  控訴費用はこれを四分し、その一を第一審被告・第一審反訴原告の、その余を第一審原告らの各負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  第一審原告ら(以下単に「原告ら」という。)

(原告らの控訴につき)

1 原判決中原告ら敗訴部分を取り消す。

2 原告らと第一審被告・第一審反訴原告(以下単に「被告」という。)との間において、別紙物件目録2ないし11記載の各土地(以下、同目録の番号に従い「本件2の土地」のように略称する。)が亡花城可信(以下単に「可信」という。)の遺産であることを確認する。

3 被告は、原告らに対し、本件2ないし11の各土地につき、那覇地方法務局沖縄支局一九六一年(昭和三六年)九月五日受付第四八八一号各所有権移転登記の抹消登記手続をせよ。

4 訴訟費用は第一、二審とも被告の負担とする。

との判決。

(当審における追加的・選択的請求につき)

1 原告らと被告との間において、本件1ないし12の各土地につき、原告らが共有持分七分の一を有することを確認する。

2 被告は、原告らに対し、本件2ないし11各土地については那覇地方法務局沖縄支局一九六一年(昭和三六年)九月五日受付第四八八一号をもつて、本件1、12の各土地については同支局同日受付第四八八二号をもつてされた同年八月一六日贈与を原因とする各所有権移転登記を、いずれも原告らの共有持分を各七分の一、被告の共有持分を各七分の二とする各所有権移転登記に更正登記手続をせよ。

3 控訴費用は被告の負担とする。

旨の判決。

(被告の控訴につき)

1 本件控訴を棄却する。

2 控訴費用は被告の負担とする。

との判決。

二  被告

(原告らの控訴につき)

本件控訴を棄却するとの判決。

(原告らの当審における追加的・選択的請求につき)

原告らの各請求を棄却するとの判決。

(被告の控訴につき)

1 原判決中被告敗訴部分を取り消す。

2 原告らの各請求を棄却する。

3 第一審原告・第一審反訴被告花城可昭(以下単に「原告可昭」という。)は、被告に対し、本件13の土地につき、真正な登記名義の回復を原因とする所有権移転登記手続をせよ。

4 訴訟費用は第一、二審とも本訴関係は原告らの、反訴関係は原告可昭の各負担とする。

との判決。<以下、事実省略>

理由

第一本訴請求について

一まず、本件1ないし12の各土地に対する可信の所有の成否について判断する。

1  可信が戦前から本件2ないし4及び7ないし11の各土地を所有していたことは当事者間に争いがない。

2  次に、本件1、5、6、12の各土地についてみるに、原告らは、可信がもと右各土地を所有していたとの自己の主張事実に対し、被告が原審においていつたん自白した後にこれを撤回したとして、右自白の撤回につき異論を述べているけれども、被告は、原審の第一二、第一三回口頭弁論期日において原告らの右主張事実を否認する旨陳述したところ、これに先立つ第一回口頭弁論期日においては、右主張事実を直接認否することなく、右各土地を可信から贈与された旨陳述したにとどまることが本件訴訟の経過に徴して明らかであるから、右所有関係について自白が成立していたとまで認めることは困難というほかはなく、自白の撤回をいう原告らの主張は採用することはできない。そこで、以下、右所有関係について順次検討する。

(本件1、12の各土地について)

原告らは、本件1、12の各土地が元来可信の所有であつた旨主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。

しかしながら、<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 可始は、可信の父方のいとこで、可信の長男可豊(明治四三年五月一〇日生)をその出生後間もなく自己の養子とし、中頭郡北谷村の自宅近くにある本件1、12の各土地を所有していたところ、明治四五年三月二七日可豊が可始を家督相続し、可豊幼少の間は可信が事実上右各土地の占有管理に当たり、昭和二〇年五月二七日可豊の死亡によつて長男の被告がこれを家督相続したが(可豊の右死亡と相続の点は当事者間に争いがない。)、右各土地は、戦後米軍によつて接収され、嘉手納基地として使用されるに至つた。

(二) 可信は、戦後、国頭郡金武村に疎開し、亡可豊の妻ヨシとその子の被告らと同居し、一九五一年(昭和二六年)中頭郡北谷村字桃原に帰つたが、この間に一九四六年(昭和二一年)二月二八日付硫球列島米国海軍軍政本部指令第一二一号「土地所有権関係資料蒐集に関する件」に基づく土地所有権認定事業が始められ、可信は、可仁と共にその土地調査に立ち会つたところ、そのころ、当時未成年の被告の親権者ヨシに対し、後記のとおり可信所有地の配分を定めることの代償として、被告が家督相続した可始家伝来の土地(後にみる本件13の土地はしばらく措く。)中、本件1、12の各土地を三男可順に、可始の位はいとその余の土地を二男可仁に分け与えるよう求め、ヨシもこれに応ずることにした。

(三) そこで可信は、本件1、12の各土地は可順名義で、その余の可始家の土地は可仁が分家独立するまでとりあえずヨシ名義で所有権申請をし、一九五〇年(昭和二五年)四月一四日付琉球列島米国軍政府特別布告第三六号「土地所有権証明」により、一九五一年(昭和二六年)四月一日付で土地所有権証明書が交付され、同年一〇月ころ可順のため桃原に住居一棟も建てたところ、翌年八月六日可順が死亡したが、本件12の土地については一九五四年(昭和二九年)四月二〇日、本件1の土地については同年五月二三日いずれも可順名義で、またその余の土地についてはそのころヨシ名義で所有権保存登記が経由された。

(四) 可順は独身のまま死亡し、またその母(可信の妻)ツルは戦前に死亡していたので、可信が可順を遺産相続することとなつたが(旧民法九九六条)、その後本件1、12の各土地について軍用地料が支払われるようになり、可信は、いずれは亡可順の位はい承継者にこれを分け与えることとして、一九五八年(昭和三三年)二月七日その所有名義を自己に更正登記手続をした。

原審における原告伊禮ツル子及び原告花城可昭(第一、二回)の各本人尋問の結果中には、可豊が可始の養子となつたことはない旨の供述部分もあり、また前掲甲第一号証及び成立に争いのない甲第三四号証によれば、可仁が昭和一九年一一月五日花城可重の養子となつたうえ、同月二〇日その家督相続をした旨の戸籍の記載があることが認められ、原告らは、可重が可始の長男であるかのような主張もする。しかしながら、前掲乙第九号証に比照するとともに、旧民法下では法定の推定家督相続人たる男子のある者が男子を養子とすることは禁じられていたし(八三九条)、右戸籍記載は事実に反する旨の原審証人花城可仁の証言(第二回)を合せ考えると、右の点が可始の家督相続に関する前記認定の妨げとなるものとは認め難い。

そして、他に前記認定を左右するに足りるほどの証拠はないから、これによれば、可順は、その存命中に被告の親権者ヨシから本件1、12の各土地の贈与を受けていたところ、一九五二年(昭和二七年)八月六日可順が死亡し、これに伴い可信がその所有権を相続取得したものといわなければならない。

なお、被告は、ヨシの可順に対する右贈与はそれに必要な親族会の同意を欠くので無効である旨主張するが、たとえ右同意がなかつたとしても、取り消しうべき行為にあたるにとどまり、当然無効となるわけではない(旧民法八八七条一項)から、右主張はそれ自体失当たるを免れない。

(本件5の土地について)

<証拠>によれば、可信の母カメは、もと本件5の土地を所有していたところ、明治四〇年二月一五日死亡したことが認められ、可信がカメを家督相続したことは当事者間に争いがない。

被告は、右土地は昭和九年に可豊が買い受けたもので、被告が更にこれを家督相続した旨主張するが、右主張事実をうかがうべき証拠はないし、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

(本件6の土地について)

可始が戦前中頭郡北谷村字下勢頭下勢頭原一〇〇五番の土地を所有しており、これが本件6の土地に含まれることについては当事者間に争いがなく、右争いのない事実と、<証拠>を総合すれば、本件6の土地は、戦前可始所有の前記一〇〇五番約七〇坪と高江洲某所有の同所一〇〇四番約五〇坪の二筆から成つていたが、可信が明治四三年ころ可始から前者の土地を、次いで大正一一年ころ高江洲某から後者の土地をそれぞれ譲り受け、戦後の地番変更等により本件6の土地となつたものであることが認められる。

被告は、本件6の土地は可豊、次いで被告が可始から家督相続したものである旨主張するが、これを認めるに足りる証拠は見当たらないし、他に右認定を動かすに足りる証拠はない。

3  以上検討したところによれば、本件1ないし12の各土地中、本件1、12の二筆については昭和二七年八月六日当時、その余の一〇筆については戦前から、いずれも可信の所有に属していたものといわなければならない。

二そして、可信が一九六三年(昭和四三年)五月三一日死亡し、その長男亡可豊の代襲相続人被告、長女原告カミ、二女原告慶子、三女ウト、四女原告喜美子、二男可仁、五女マサ子、四男原告可昭及び六女原告ツル子の九名が共同相続したが、マサ子は昭和五三年五月二〇日、ウトは昭和五四年一月五日、いずれも独身のまま死亡し、結局、原告ら五名と被告及び可仁の七名が可信の共同相続人となつたこと、本件1ないし12の各土地については、被告が可信死亡前の一九六一年(昭和三六年)九月五日、いずれも同年八月一六日贈与を原因とする原告ら主張の各所有権移転登記を経由し、右各土地が亡可信の遺産に含まれることを争つていることは当事者間に争いがない。

三そこで、可信から本件1ないし12の各土地の贈与を受けた旨の被告の抗弁について検討する。

1  <証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 本件2ないし11の各土地も、戦後米軍嘉手納基地に供されることとなつたが、可信は、前記土地所有権認定事業の際、戦前から所有していた右各土地について自己名義で所有権申請をし、土地所有権証明書の交付を受けて一九五四年(昭和二九年)五月二九日所有権保存登記を経由し、前同様に軍用地料が支払われていたところ、既に右土地調査のころから、右一〇筆を含む自己所有地と、事実上占有管理してきた可始家伝来の土地とを男の子達に適宜分け与えることを考え、可始家の土地を前記のとおり配分する代償として、本件2ないし11の各土地はいずれ被告に贈与する旨の意向を家族に明言していた。

(二) 可信は、三男可順に対しては、その生前前記のとおり本件1、12の各土地を分け与えており、一九五八年(昭和三三年)二月ころ、中頭郡中城村字登又の土地数筆を買い受け、うち一筆を二男可仁に、三筆を四男原告可昭に贈与し、またそのころまでに、ヨシに対し、可始家伝来の土地中前記のとおりヨシ名義となつていた土地を可始家の位はい承継者に定められている可仁の名義に移転するよう求め、ヨシもこれに応じてその登記手続を了した。

(三) 本件2ないし11の各土地については、一九五七年(昭和三二年)三月までに米国政府のため賃借権の設定登記が経由されたが、可信は、一九五九年(昭和三四年)六月ころ北谷村字浜川に新居を建ててヨシらと共に転居したところ、そのころまでの間に、かねて明言していたとおり右各土地を被告に贈与した。しかし、可信の財産配分方法や精神病を煩つていた二女ウト及び病弱の五女マサ子の監護扶養等を巡つて、原告ら、殊に原告可昭と可信との間に確執が生じるようになつた。

(四) そこでヨシは、そのころ可信から同人所有名義の土地の権利証等を預ることとなり、一九六一年(昭和三六年)九月五日可信の承諾を得たうえ、当時は成年に達していた被告を代理して本件2ないし11の各土地につき贈与を原因とする被告名義の各所有権移転登記手続を実行したが、その際、前記経緯により可信の所有に帰し、いずれは亡可順の位はい承継者に分与されるべき本件1、12の各土地のほか、可信が先に買い求めていた前記中城村の土地中四筆についても被告名義で各所有権移転登記を経由した。

<反証排斥略>、他にこの認定を左右するに足りるほどの証拠はない。

2  右認定の事実関係によると、被告は、一九五九年(昭和三四年)六月ころまでの間に、可信から本件2ないし11の各土地の贈与を受け、その所有権を取得したものといわなければならない。

ところで、被告は、本件1、12の各土地も可信から贈与を受けた旨主張するが、これを認めるに足りる的確な証拠はないばかりか、前記1の認定によれば、右贈与の事実のないことが明らかである。そうすると、本件1、12の各土地は亡可信の遺産に属するものというべきところ、沖縄でも一九五七年(昭和三二年)一月一日以降は民法第四編第五編が施行されていたのであるから(一九五五年立法第八四号)、前記二の当事者間に争いのない事実に徴すると、他に抗弁事由のない限り、可信とマサ子及びウトの死亡に伴つて、原告ら五名と被告及び可仁の七名が右土地を共同相続したものといわなければならない。

3  そこで、可信の意思無能力を理由とする原告らの贈与無効の再抗弁について検討する。

(一) 可信が一九六一年(昭和三六年)八月ころ脳動脈硬化性精神病にかかつていたことは当事者間に争いがなく、前記三の1の認定事実と、<証拠>によると、可信は、原告可昭らとの前記確執がその一因となつて不眠、被害妄想等を訴えるようになり、一九六〇年(昭和三五年)三月二六日から同年七月五日まで那覇市天久の天久台病院に前記病名により入院して治療を受け、一九六八年(昭和四三年)五月三一日死亡するころにはその病状がかなり悪化していたことが認められる。

(二) しかしながら、可信がその死亡前に禁治産宣告ないし準禁治産宣告を受けていたような形跡は全く見当たらないし、同人が、戦後の土地調査にみずから立ち会い、自己所有地と可始家伝来の土地について所有権申請をして一九五四年(昭和二九年)五月までに所有権保存登記を経由し、右各土地の軍用地料を受領するなどしてその管理に当たり、更に一九五八年(昭和三三年)二月ころ中城村の土地を買い受け、これらの土地を男の子達へ適宜配分してきたことは前記認定のとおりである。そして、<証拠>によれば、可信は、前記入院時まで養豚業を営み、一九五八年(昭和三三年)三月二五日糸村ツル子に一万円貸し付けて年二回利息を受領し、一九六二年(昭和三七年)暮にその完済を受けており、一九五九年(昭和三四年)前記のとおり砂辺に居宅を建築した際には、工事請負人との間で工事仕様、請負代金を取り決めるなどして、また前記中城村の土地の一部を他に賃貸して賃料を受領し、一九六三年(昭和三八年)一月被告の結婚披露宴が前記居宅で開かれた際、その席上で招待客を普通にもてなしており、翌年被告に子が生まれるとその子守をしたようなこともあつたことが認められる。

(三) 右(二)の諸事情に比照してみると、本件2ないし11の各土地の前記贈与の当時、前記(一)の事実から直ちに、可信が自己の行為の結果について合理的判断をする能力を欠き、原告ら主張のように意思無能力であつたと断定することは困難というほかはなく、原審証人平良賀計、同伊禮正信及び当審証人照屋忠利の各証言並びに原審における原告花城可昭の本人尋問の結果(第一回)も、その各供述内容自体に徴し、右主張の的確な証拠とはいい難いし、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

なお、前記のとおり被告の母ヨシが可信の承諾を得て前記各所有権移転登記を経由した一九六一年(昭和三六年)九月ころにおいても、可信が前記病状にあつたことは前記のとおりであるが、右承諾の意思表示の当時、同人が意思無能力であつて登記申請意思を欠缺していたとまで確認するに足りるほどの証拠もない。

したがつて、再抗弁は採用することができない。

四してみれば、原告らの本訴各請求中、本件1、12の各土地につき、原告らと被告との間においてこれが亡可信の遺産であることの確認と、被告に対しその名義でされた前記各所有権移転登記の抹消登記手続を求める部分は正当としてこれを認容すべきであるが、本件2ないし11の各土地に関する部分は失当として棄却を免れない。

ところで、原告らは、当審において、本件1ないし12の各土地につき、これが亡可信の遺産であることを前提として、共同相続による自己の共有持分の確認と前記被告名義の各所有権移転登記の更正登記手続を求める旨の請求を選択的に追加している。しかしながら、本件1、12の各土地については前判示のとおり原審以来の本訴各請求を認容すべきであるから、右各土地に関する右選択的請求についてはその判断の要をみないし(なお、被告名義でされた右の各所有権移転登記は、可信の死亡後に経由されたものではなく、既にその生前において同人からの贈与を原因として経由されていたものであるから、右登記と、前記可信、マサ子及びウトの各死亡による三回の相続を一回で経由すべき原告らの選択的請求にかかる共同相続登記との間には、登記の前後の同一性が認められず、したがつて、更正登記の限界を超えるものといわざるをえない。)、本件2ないし11の各土地に関する右選択的請求も、その前提において理由がないこと叙上の認定判断に徴して明らかであるから、失当としてこれを棄却すべきである。

第二反訴請求について

一まず、反訴の適否についてみるに、この点に関する当裁判所の判断は、原判決理由中の関係部分(原判決一四枚目表一行目から同七行目まで)の説示と同一であるから、これを引用する。

二そこで、本案についてみるに、<証拠>を総合すると、本件13の土地は、戦前から可始がこれを所有していたものであることが認められる。

原告可昭は、本件13の土地はもと可信が所有していた旨主張し、原審におけるその本人尋問の結果(第一回)中には、それに副うような供述部分もあるが、前記採用の各証拠に照らして措信し難く、他に右主張事実をうかがい、前記認定を左右するに足りる証拠はない。

そして、可豊が明治四五年三月二七日可始を家督相続し、昭和二〇年五月二七日可豊の死亡に伴つて被告が家督相続したことは前記のとおりであるから、被告はこれにより本件13の土地の所有権を取得したものといわなければならない。

三しかるに、原告可昭が本件13の土地について一九五四年(昭和二九年)五月二一日被告主張のような所有権保存登記を経由したことは当事者間に争いがない。

四進んで、原告可昭の取得時効の抗弁について判断する。

1 本件13の土地は、戦後米軍に接収され今日に至るまで嘉手納基地として使用されている軍用地であること、原告可昭は、可信から右土地の贈与を受けたとして前記のように所有権保存登記を経由してのち、その軍用地料を受領してきたことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実並びに前記第一の一の2及び三の1の各認定事実と、<証拠>を総合すれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りるほどの証拠はない。

(一) 可信は、戦後の前記土地所有権認定事業に際して土地調査に立ち会い、自己所有地と可始家伝来の土地について、前記のように男の子達への財産配分を考慮しつつ所有権申請をしたが、本件13の土地については、これが可信家の所有地で本来自己の弟可萬が承継すべきものと誤信し、当時の実体的な所有者であつた被告の親権者ヨシから確たる了承を得ないまま、これを四男原告可昭に与えるべくその名義で所有権申請をし、土地所有権証明書の交付を受けて一九五四年(昭和二九年)五月二一日前記のとおり同人名義の所有権保存登記を経由し、原告可昭も、そのように信じて可信から可萬の位はいとともに右土地の権利証の交付を受けた。

(二) これより先、一九五二年(昭和二七年)四月二八日の対日講和条約の発効に伴い、米軍によつて接収されてきた軍用地については、その占有使用権原を明確にする必要に迫られ、翌年一二月五日付米国民政府布告第二六号「軍用地域内における不動産の使用に対する補償」に基づき、米国政府のため黙契による賃借権が設定されて、米軍占有地に対する補償が支払われることになつたところ、本件13の土地についても右賃借権が設定され、一九五七年(昭和三二年)二月一四日その旨の設定登記が経由された。

(三) 次いで一九五九年(昭和三四年)二月一二日付高等弁務官布令第二〇号「賃借権の取得について」に基づき、本件13の土地につき同年一二月一日琉球政府との間に基本賃貸借契約が締結され、同政府は総括賃貸借契約の下に米国政府にこれを転貸することとなり、更に昭和四七年五月一五日沖縄の本土復帰に際しては同日付で国との間に引き続き米軍の用に供する目的で賃貸借契約が締結された。そして原告可昭は、前記のとおり本件13の土地の所有名義人となつて以降現在に至るまで、公簿面積に応じたその賃料(軍用地料)を受領するとともに、固定資産税を納付してきている。

(四) 本件13の土地及び本件1ないし9の各土地は、戦前、中頭郡北谷村字下勢頭にあつた可信及び可始家の屋敷及び墓地等の一画を成し、本件13の土地は、その中にあつて三方を道路に囲まれた台形状を成し、その東側は可始家伝来の本件1の土地に、南側は可信の親の屋敷があつた本件2の土地に、それぞれ道路をはさんで相対しており、古くは「ヘーヤチガマ」と通称されて石灰を焼く窯があつたが、後には畑となつて、沖縄戦に至るまで可信らがさつまいも等を耕作していた。しかし、右各土地は、戦後、前述のように米軍の嘉手納基地に供されることになり、本件13の土地付近は雑草、雑木等の生えるにまかせ、原告可昭らは毎年一回清明祭の際に墓参のため村から仮パスの交付を受けて同所を通行していたが、一九五六年(昭和三一年)ころには墓も撤去されて右立入りも禁止され、付近一帯は芝生を張つた米軍ゴルフ場として造成されるに至り、本件13の土地はその東側に直近する位置を占め、付近には境界標識らしきものはなく、米人住宅が建てられている。

(五) 沖縄では、第二次大戦末期の沖縄戦によつて公簿、公図類が焼失し、その戦闘行為と戦後の米軍の基地建設により地形も著しく変容し、土地の境界標識等も不明となつて地籍が混乱したところ、本件13の土地を含む付近一帯の軍用地にあつては、現地の立入調査ができないため、戦後の土地調査及び復帰前の土地調査法(一九五七年立法第一〇五号)による地籍調査によつても各筆の位置境界は必ずしも明確にされなかつた。しかし、復帰後、防衛施設庁によつて集団和解方式により進められてきた位置境界明確化作業は、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」(昭和五二年法律第四〇号、以下「地籍明確化法」という。)によつてその法的根拠が与えられ、これに基づき、前記各土地は位置境界不明地域に指定されて引き続き測量調査が進められた結果、各筆の位置境界を示す地図が作成され、原告可昭も昭和五五年九月二日本件13の土地の分につき現地確認を了した。もつとも、本件13の土地を含む付近二四筆の土地中三筆の所有者の現地確認が未了のため、認証等の手続が取られておらず、右図面は、那覇地方法務局沖縄支局に保管されてはいても、現段階においては不動産登記法一七条の図面としての現地復元性の効力は認められていないし、本件13の土地の登記簿上の地積(1004.95平方メートル)が右図面による面積(1034.66平方メートル)に更正されてもいないが、本件13の土地の東側と南側の土地所有者(いずれも被告)及び北側の土地所有者は右確認を終えており、確認未了者に対しては防衛施設庁長官による勧告(地籍明確化法一三条)等の方途も定められている。そして右図面による本件13の土地の形状、位置関係は、(四)に認定の戦前のそれと相似している。

2  そこで、右認定の事実に基づいて本件13の土地の占有関係についてみるに、原告可昭がその所有名義を取得した一九五四年(昭和二九年)五月二一日当時、右土地は前記のような沖縄特有の歴史的経過によつて米軍に接収され、嘉手納基地としてその事実的支配下に置かれてしまい、原告可昭みずからこれを直接に占有しうべくもなかつたことは明らかである。しかしながら、原告可昭と米軍(米国政府)との間には右土地につき賃貸借契約が締結され、これに基づいて米軍が直接に占有していたものであつて、その後賃借人は琉球政府、次いで国に引き継がれたが、この間原告可昭は一貫して公簿面積に応じた軍用地料を受領し、固定資産税も納付してきたものである。本件13の土地付近は、既に米軍用ゴルフ場として造成され、境界標識らしきものもなく、被告主張のように、地籍明確化法に基づく明確化作業が法的に完了しているわけではないが、右土地については、右ゴルフ場東側直近に所在する土地として、いわば包括的特定が存在するばかりでなく、前記認定のような戦前及び戦後約一〇年間の占有使用状況等からすると、具体的な特定指示の現実的可能性のあることも一概に否定し難いし、右明確化作業により、関係地主の現地確認もほぼ終え、各筆の位置境界を示す地図も作成され、これによる本件13の土地の形状及び位置関係は事実上現地復元性を有し、戦前の状況との間に相似性が認められることも明らかである。そして、位置境界不明地域の軍用地であつても、売買、担保権の設定等の取引行為にあつては、その対象土地の厳密な具体的特性を問うことなく一般的に行われているとの、当裁判所に顕著な事実を合せ考えれば、原告可昭は、本件13の所有名義人となつた当時、ただ単に公簿面積に応じた軍用地料を受領する債権的な権利を取得したにとどまるものとすることはできず、社会観念上、一筆の土地につきその公簿及び図面上の区画に従い特定しうべき現実の地形、地積を物権の客体とし、賃貸借を介して米軍によつてこれを事実的支配下に置くという客観的外部関係が既に成立していたものというべく、したがつて、原告可昭は、それ以降占有代理人たる米軍を介して間接にこれを占有してきたものと認めるのが相当である。これに反し、米軍による事実支配が時効取得の基礎たる代理占有に値しない旨の被告の主張は、本件のような事実関係の下にあつては、たやすくこれを採用することができない。

3  そうすると、原告可昭の米軍を介しての本件13の土地に対する占有は、民法一八六条一項に従い、所有の意思をもつて善意、平穏、かつ、公然に始められたものと推定すべきところ、被告は、原告可昭が、可信から贈与を受けたのは本件2の土地であると考えていたものであるから所有の意思はなかつた旨主張するが、所有の意思は、占有者の内心の意思によつてではなく、占有取得の原因である権原又は占有に関する事情により外形的客観的に定められるべきものであるから、右主張は採用し難く、他に前記推定を覆すに足りる証拠はない。

4  以上によれば、原告可昭が一九五四年(昭和二九年)五月二一日に本件13の土地に対する間接占有を始めた際、無過失でなかつたとしても、昭和四九年五月二一日には民法一六二条一項の二〇年の取得時効期間が満了したことは明らかであつて、原告可昭は本訴において右時効を援用しているのであるから、占有のはじめ無過失であつたか否かについて判断するまでもなく、取得時効の抗弁は理由がある。

五してみれば、被告の原告可昭に対する反訴請求は失当としてこれを棄却すべきである。

第三むすび

以上説示の次第で、右判断と同旨の原判決は相当であつて、原告ら及び被告の本件各控訴はいずれも理由がないから、民訴法三八四条に従つてこれを棄却し、原告らの当審における追加的・選択的請求中、本件2ないし11の各土地に関する各請求も棄却することとし、訴訟費用の負担につき同法九五条、八九条、九二条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(惣脇春雄 比嘉輝夫 篠原勝美)

物件目録<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例